月輪山 清光寺 (げつりんざん せいこうじ)


宗派           浄土真宗本願寺派
所在地      〒758-0046 萩市西田町16
地図
電話           0838−22−4196
FAX           0838−22−4196
住職           最上和文 第一二世 昭和二十一年十月二十八日生
本尊       阿弥陀如来
伽藍           本堂 経蔵 庫裏 山門
沿革           当寺は明治になって教宗寺および善行寺と合併して今日に至っている。清光寺は、輝元の室清光院殿が真宗に帰依し、慶長九年(1604)ごろ山口に堂宇を建立し、これを興正寺兼帯所と称していた。その後慶長十三年(1608)ごろこれを萩に移転し、今の本願寺萩別院の地に建立した。したがって開基は清光院殿とし、兼帯所の開山は京都興正寺門跡第一八世准尊上人である。輝元の養姫(宍戸元秀次女)長寿院殿が上人の室となられた縁をもって開山とした。寛永八年(1631)清光院殿が没せられ、その霊位安置所とし、清光寺と号するようになった。萩での当寺の一世は准円(准尊上人の次男、母は長寿院殿)である。その後、火災にあったが、文化年間(1804〜17)に再建された。明治元年(1868)南殿寺、同二年に准円寺と改称し、明治十三年(1880)第八世明月広正代に土地建物一切を萩周辺の真宗門徒に譲り本願寺別院とし、自らは旧清光寺前にあった教宗寺と合併しそこへ移転した。さらに明治二十六年(1893)に広正が退任し、善行寺第一二世最上僧霖が第九世となり、善行寺と合併し、その地へ移転した。大正二年(1913)に准円寺を改めて清光寺と復称するようになったのが現在の清光寺である。
        善行寺開基教誓は広島三次の出身で、明円寺の住職となる約束で萩へ来たが実現せず、生国へ婦ろうとしたところ、清光寺の前身兼帯所が無住の状態であったので、住職代わりを仰せつけられた。その後再三帰国を申し出たが許されず、今の清光寺の地に一寺を賜ったのが善行寺である。その後この寺の代々住職が清光寺の寺務に奉仕することになった。寛永十四年(1637)正式に寺号を許可され、寛文十一年(1671)に火災にあっている。清光寺と合併後、寺号のみ鹿児島へ移った。
        教宗寺(放光山)は昔専光寺と号して瓦町にあったという。慶長二年(1597)ころ、長末相馬という人が禅宗であったが、西本願寺へ参詣し、真宗に帰依し出家、准如上人から宗巴という法名を下され、帰国して無住の状態であった専光寺に住するようになった。それまでの記録がないのでこの宗巴をもって開基とする。その後再び無住になっていたところ、清光院殿の御局小太夫という人の甥で、防府阿弥陀寺の弟子祐雪が、清光院殿の希望によりこの寺の第二世となった。第三世祐慶代、万治二年(1659)に教宗寺と改称し、享保二年(1717)旧清光寺前に移転し、明治十三年(1880)清光寺と合併した。
年中行事  報恩講法要/ 永代経法要/ 婦人会法要
寺宝等       蓮如上人真筆六字尊号/ 清光院殿御影/ 毛利輝元が養姫長寿院に与えた七百石お墨付き
歴代住職   開山准円(正保三年没)/ 第二世良重(延宝五年没)/ 第三世寂乗(宝永五年没)/ 第四世寂岑(享保十八年没)/ 第五世住慧(寛政八年没)/ 第六世本受(明治四年没)/ 第七世広朗(明治十四年没)/ 第八世広正(明治三十四年没)(以上明月姓)/ 第九世僧霖(最上、明治三十五年没)/ 第一〇世真証(最上、昭和十年没)/ 第一一世晴雄(最上)
有名人       小倉尚斎/ 小倉鹿門/ 小倉遜斎