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          真(まこと)の仏様

                                      (浄土宗・俊光寺・岩垣 法順)


疑いの心をもって見ると、あやしくないものまで怪しく見えてくる。そして、実際にはいないのに、その姿が見えるような気がして、さまざまな恐ろしい妄想を生みだす。疑心暗鬼とはそう言う意味でした。

今年も庭の松の木、藤の木を剪定してもらいました。一緒にお茶を飲みながら、花の咲かせ方、枝の切り方、植え替える時には根回しをしっかりやらなくちゃいけない等々、人生訓を語り合っているような、和気あいあいとした和やかな会話が弾み、「有り難うございました」と笑顔で帰っていかれた。

ところが、今年は、どういう訳か藤の花が一向に咲かない。

すぐその原因を、庭師の失敗に違いないと考え、そう考えると、あのニコニコ顔が疎ましく、何を偉そうに蘊蓄を傾けお喋りしていたのかと、嫌な心が次々わき上がる。

庭師の鬼のような顔を思いつつ悶々とした日々を過ごし、ふと藤の木を見上げると、何と、藤の蕾をいくつも付けているではないか。

蕾を見つけたとたん、あれほど憎しと思っていた庭師の顔が、いつもの優しい穏やかな仏の顔に変わっている。

さて、心のあり方で人の顔がこうも違ってしまう疑心暗鬼を、身を以て体験してみると、今まで一体私は、どんな仏様のお姿を拝んできたのだろうか?

本当に心底身を投げ出して信じてきた仏様のお姿を、その心の姿のままに、拝んだことがあっただろうかと思い至った。

運慶、快慶作の有名な仏師の彫られた尊いお姿の仏様達、ご縁のあった三国伝来の釈迦如来、何れの仏様もそのお姿は、たとえようもなく尊い仏様であるし、私の頭の中から離れることはない。

しかし、今眼の前に在す阿弥陀如来のご本尊様こそ、日々間近に拝する私にとってかけがえのない、他には変えることの出来ない、私の心のあるがままの仏様であることに気が付いてみると、日々に拝する我が仏様、国宝にも勝る、何と有り難い仏様であるかと、喜びの中御名を称えさせて頂きました。 合掌


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