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          お寺の空間の効用

臨済宗・徳隣寺・阿部浩岳


第二次世界大戦が終了して五八回目の夏が去ろうとしている。

今年は、三月の終わりから外国ではイラク戦争・パレスチナ問題など、国内では長崎の幼児殺害事件・埼玉の男女四人殺傷事件等、人の命が紙よりも軽く扱われる事件が多発している。

確かに過去にもベトナム戦争などで多くの人がお亡くなりになっているが、国内で急激な低年齢化と、はっきりした理由のない殺傷事件が、変な言い方になるが徐々に存在感を増してきており、毎日この様な報道に接して私達は段々神経が麻痺してきていないだろうか。

「何かがおかしい、どうも変だ」と、特に中年以降の多くの方は感じておられるにせよ、いつから、どこが、どういう風におかしくなってきたのかはっきりしないのが、その特徴だ。

敗戦後、腹一杯米を食べたいという欲求から生じた、「豊かになる」という願いが、いつしか目的となってしまって、その過程で農地や山や川や海が荒廃し汚染され、のどかな懐かしい村祭りや世代間を越えた知恵の伝承という日本の伝統的な風俗習慣が崩れていってしまった。

そのような事を感じていると、都会からお墓参りに帰って来られた方々が異口同音に、本堂でお茶を飲みながらお話をしているときに、「ここは何だか心が落ち着きます」とおっしゃる。

それは、戦後の高度経済成長が始まるまでは日本のどこにでもあった風情、即ち、木と紙で出来た家屋がもたらす心の開放感と大きく関係していると思われる。

今やお寺の何もない空間は、古い郷愁の世界にのみ生きている日本にタイムスリップして得られる一時の安らぎ(失われた豊かさ)を象徴とする場となったのかも知れない

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