平成12年度 仏教文化講演会記録

平成12年10月21日
於 萩市新川 ベル・ホール


おのれが分を思量せよ
〜親鸞聖人の批判精神〜

    光山寺若院 武田 晋


   はじめに
 親鸞聖人(一一七三〜一二六二)の在世当時に仏教者はいかなる歴史観を持ち、またそれを当時の専修念仏を批判した法相宗の貞慶(一一五五〜一二一三)・華厳宗の明恵(一一七三〜一二三二)といった諸師はいかに意識され、自分をどう位置づけられていかれたのか?また、法然上人の教えを受(承)けた親鸞聖人はどのような人間観を持たれていたのかについて触れたい。


   一、親鸞聖人の生涯
 親鸞聖人の生涯を概略的に年表で示すと次ぎのようになる。

 ◇承安3 1173 宗祖1 月日不祥 誕生(自筆本奥書による逆算)。
 ◇養和元 1181 宗祖9 春    慈円について得度(伝絵)。
 ◇寿永元 1182 宗祖10 月日不祥 恵信尼誕生(恵信尼消息)。
 ◇建久9 1198 宗祖26 月日不祥 源空、『選択集』を著す(元久元年の異説あり)。
 ◇建仁元 1201 宗祖29 月日不祥 宗祖、源空の専修念仏に帰す(教行信証・恵信尼消息)。
 ◇元久元 1204 宗祖32 11.8   源空の七箇条制誡に「僧綽空」と連署(二尊院文書)。
 ◇元久2 1205 宗祖33 4.14   源空から『選択集』を付属され、同日、源空の影像を図画する(教行信証)。
         宗祖33 (7).29  先に図画した影像に、源空讃銘を書く。同日、綽空の名を改める(教行信証)。
         宗祖33 10.-   興福寺衆徒、専修念仏停止を訴える。
 ◇承元元 1207 宗祖35 2.-    専修念仏停止。源空、宗祖ら流罪(教行信証・伝絵・古徳伝)。
 ◇建暦2 1212 宗祖40 月日不祥 源空、源智のために『一枚起請文』を著す。
         宗祖40 1.25   源空示寂(八〇)。
 ◇建保2 1214 宗祖42 月日不祥 宗祖、上野佐貫で『三部経』千部読誦を発願、やがて中止。常陸へ行く(恵信尼消息)。
 ◇承久3 1221 宗祖49 8.-    聖覚、『唯信鈔』を著す(専修寺蔵奥書)。
 ◇元仁元 1224 宗祖52 8.-    延暦寺衆徒の訴えにより専修念仏停止。
         宗祖52 月日不祥 『教行信証』に仏滅年代算定基準としてこの年をあげる(草稿本成立の年とする説あ                   り)。
 ◇寛喜2 1230 宗祖58 5.25   宗祖、『唯信鈔』を写す(諸本奥書)。
 ◇寛喜3 1231 宗祖59 4.4    宗祖、建保二年の『三部経』読誦を反省(恵信尼消息)。
 ◇貞永元 1232 宗祖60 月日不祥 この頃、宗祖帰洛(反故裏書)(関東在住二十年とする古説によると文暦・嘉禎の頃か)。
 ◇嘉禎元 1235 宗祖63 3.5    聖覚示寂(六九)。
 ◇宝治元 1247 宗祖75 2.5    尊蓮、『教行信証』を写す(大谷大蔵奥書・寛永版奥書)。
 ◇宝治2 1248 宗祖76 1.21   宗祖、『浄土和讃』『高僧和讃』を著す(専修寺蔵奥書)。
 ◇建長2 1250 宗祖78 10.16   宗祖、『唯信鈔文意』を著す(岩手県本誓寺蔵奥書)。
 ◇建長3 1251 宗祖79 (9).20  宗祖、常陸の有念無念の論争を制止(専修寺蔵奥書・消息第一通)。
 ◇建長4 1252 宗祖80 2.24   宗祖、常陸の造悪無碍の風儀を制止(消息第二通)。
         宗祖80 3.4    宗祖、『浄土文類聚鈔』を著す(専修寺蔵奥書)。
 ◇建長6 1254 宗祖82 9.16   宗祖、『後世物語聞書』を写す(法要本校異奥書)。
         宗祖82 11.18   宗祖、二河白道の譬喩を延書(茨城県照願寺旧蔵奥書)。
       宗祖82 12.-   宗祖、『浄土和讃』を写す(反故裏書)。以後一回写す。
 ◇建長7 1255 宗祖83 4.23   宗祖、『一念多念分別事』を写す(大阪府光徳寺蔵・恵空写伝本奥書)。
       宗祖83 5.23   宗祖、『上野住人大胡太郎への御返事』を写す(専修寺蔵奥書)。
       宗祖83 6.2    宗祖、『尊号真像銘文』(略本)を著す(福井県法雲寺蔵奥書)。
       宗祖83 6.22   専信、『教行信証』を写す(専修寺蔵奥書)。
       宗祖83 7.14   宗祖、『浄土文類聚鈔』を写す(東本願寺蔵奥書)。以後一回写す。
       宗祖83 8.6    宗祖、『浄土三経往生文類』(略本)を著す(本山蔵奥書)。
       宗祖83 8.27   宗祖、『愚禿鈔』を著す(存覚写本奥書)。
       宗祖83 10.3   宗祖、『かさまの念仏者のうたがひとはれたること』を書いて自力他力について教示(東                  本願寺蔵奥書・消息第六通)。
       宗祖83 11.晦   宗祖、『皇太子聖徳奉讃』七十五首を著す(専修寺蔵奥書)。
       宗祖83 冬    真仏・顕智、『教行信証』を相伝(顕正流義鈔)。
       宗祖83 月日不祥 朝円、宗祖影像(安城御影)を描く(袖日記)。
 ◇康元元 1256 宗祖84 3.23   宗祖、『入出二門偈』を著す(福井県法雲寺蔵奥書)。
       宗祖84 3.24   宗祖、『唯信鈔文意』を写す(大阪府光徳寺蔵奥書)。
       宗祖84 4.13   宗祖、四十八願に加点(四十八誓願)。また『念仏者疑問』を写す(専修寺蔵奥書)。
       宗祖84 5.29   宗祖、子息善鸞を義絶(消息第九通)。
       宗祖84 7.25   宗祖、『往生論註』に加点(本山蔵加点本奥書)。
       宗祖84 10.13   宗祖、『西方指南抄』(上・末)を、翌日、同(中・末)を写す(専修寺蔵奥書)。
       宗祖84 10.30   宗祖、『西方指南抄』(下・本)を写す(専修寺蔵奥書)。
       宗祖84 11.8   宗祖、『西方指南抄』(下・末)を写す(専修寺蔵奥書)。
       宗祖84 11.29  宗祖、『往相回向還相回向文類』を著す(愛知県上宮寺蔵奥書)。
◇正嘉元 1257  宗祖85 1.1  宗祖、『西方指南抄』(上・末)を校合(専修寺蔵奥書)。
       宗祖85 1.2  宗祖、『西方指南抄』(上・本、中・本)を校合(専修寺蔵奥書)。
       宗祖85 1.11  宗祖、『唯信鈔文意』を写す(専修寺蔵奥書)。
       宗祖85 1.27  宗祖、『唯信鈔文意』を写す(専修寺蔵奥書)。以後一回写す。
       宗祖85 2.5  覚信、『西方指南抄』(下・本)を写す(専修寺蔵奥書)。
       宗祖85 2.17  宗祖、『一念多念文意』を著す(東本願寺蔵奥書)。以後一回写す。
       宗祖85 2.27  覚信、『西方指南抄』(中・本)を写す(専修寺蔵奥書)。
       宗祖85 2.30  宗祖、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』百十四首を著す(真宗遺文纂要所収本奥書)。
       宗祖85 3.2  宗祖、『浄土三経往生文類』(広本)を著す(興正寺蔵奥書)。以後一回写す。
         宗祖85 3.5  覚信、『西方指南抄』(上・本)を写す(専修寺蔵奥書)。
       宗祖85 3.20  覚信、『西方指南抄』(中・末)を写す(専修寺蔵奥書)。
       宗祖85 (3).21  宗祖、『如来二種回向文』を著す(専修寺蔵奥書)。
       宗祖85 5.11  宗祖、『上宮太子御記』を写す(本山蔵奥書)。
◇正嘉2 1258  宗祖86 3.8  真仏示寂(五〇)。
       宗祖86 6.28  宗祖、『尊号真像銘文』(広本)を著す(専修寺蔵奥書)。
       宗祖86 9.24  宗祖、『正像末和讃』を著す(専修寺蔵奥書)。以後一回写す、補訂。
       宗祖86 12.14  顕智、三条富小路善法坊で宗祖の法語を聞書する(獲得名号自然法爾御書)。
◇正元元 1259  宗祖87 9.1  宗祖、『選択集』延書を写し、九月十日終る(大谷大・専修寺蔵奥書)。
◇文応元 1260  宗祖88 12.2  宗祖、『弥陀如来名号徳』を写す(長野県正行寺蔵奥書)。
◇弘長2 1262  宗祖90 11.28  宗祖示寂(九〇)。

 親鸞聖人は承安三年(一一七三)四月一日(新暦・五月二十一日)、京都の日野家に生をうけられた。折しも保元・平治の戦乱で社会秩序も価値観も崩れさて、人々にとって現世に生きる希望が全く見出せない時代であった。そうした状況のなかで、親鸞聖人は、九歳にして僧侶となって仏道修行の道を進むことを決心し、以来、当時の仏教学修の権威である比叡山で二十年間にわたり厳しい修行を重ねられた。しかし、親鸞聖人がそこで見られた当時の仏教界の状況は決して希望のもてるものではなかった。僧侶の多くにはもはや道心はなく、権力闘争にあけくれる様相はまさに末世というにふさわしい状況でした。そのような劣悪な時代環境に加えて、聖人自身、修行に勤め励むほど、ますますみにくい心が見えてくるだけで、悟りへの条件である清浄な心になることなど、とうてい不可能な自分であることを実感されるばかりでした。そうしたゆきずまりの中で聖人が知られたのが、ちょうどその頃、東山の吉水の草庵で法然房源空(一一三三〜一二一二)が説いていた、どんな悪人でも念仏すれば浄土に生まれて仏になることができるという念仏往生の教えでした。これこそ自分のようなものが仏になることのできる唯一の教えであることを確信した聖人は、比叡山での仏道修行をやめて法然上人の弟子となり(二十九歳)、以後、念仏の道を自己の進むべき道と定められたのでした。
 地位や身分に関係なく、善人も悪人もすべての人が救われるという念仏の教えは、当時、社会の下ずみの生活を余儀なくされていた民衆の間に急速にひろまりましたが、同時に、この教えは仏教の原則から外れたもので、社会を惑わすものであるという強い非難が従来の仏教宗派より起こり、それをうけて遂に承元元年(一二〇七)、朝廷より念仏の禁止命令が出され、法然上人も親鸞聖人も罪を問われて京都より追放される事になりました。聖人は、僧侶の地位を取りあげられて藤井善信という俗にされて越後(新潟)に強制追放(遠流)されました。しかし、聖人はこれにひるまず、この災難を念仏を広めるよい機会だと受け止め、新潟県より更に関東方面(茨城県)に移り住み、念仏の教えを広められたのでした。また、聖人は僧侶として許されていない結婚もされました。このよに、僧侶の資格を奪われて在家の生活をしながらも、俗人にもなりきれず僧侶の形をしている(非僧非俗)自分を「愚禿親鸞」と名乗り、そのようなものでも仏になる道のあることを身をもって示されたのでした。晩年は京都に帰り、弘長二年(一二六二)十一月二十八日(新暦・一月十六日)、九十歳で往生されました。
 親鸞聖人の生涯に私達が見るものは、常識や権威に惑わされないで、何が真実かを判断の基準とし、それをあくまでつらぬいてゆかれた姿です。時の権威である比叡山で二十年も積み重ねた学問を捨てて、仏の心(大慈悲)はどんな悪人をも救うところにあること知って法然上人の教える道を選ばれたこと、承元の法難で、たとい流刑になろうとも自己の信念を貫かれたこと、晩年、わが子善鸞が異説を説いた時に、親子の縁を切ってまで真実を守ろうとさらたことなどはそれを証明することです。このような親鸞聖人の一生は、まさに仏教徒のあるべき姿を示すものであるといえましょう。
 親鸞聖人は浄土真宗の教えは仏教の根本原理を外れたものでは決してなく、むしろ仏教の正統であり、これこそ「真実」であることを多くの著作を通して顕らかにされました。その中でも『顕浄土真実教行証文類』六巻(略称『教行信証』)は多くの経典や先学の著作に根拠を求めながら、体系的に『無量寿経』の教えの真意を顕かにされた最も重要な著作です。そのようなところから、この著作の完成年が(元仁元年:一二二四)が、宗派としての浄土真宗の独立「立教開宗」の年であるとされています。聖人の著作には、上記のような漢文で書かれたものの他に、和文で書かれたもの、和文の歌の形で叙述さらたもの(和讃)などがあります。また、関東地方の弟子たちと交わされた手紙(消息)、弟子の唯円が、平素の親鸞聖人のお言葉を編集した『歎異抄』などの語録集が遺されています。


   二、歴史観 〜末法史観と三劫説〜
    イ、親鸞の場合
 それでは、親鸞聖人はどのような歴史観を持っていたのであろう。親鸞聖人は浄土真宗の七高僧として仰ぐ中国の道綽禅師(五六二〜六四五)の『安楽集』を拠り所として、教興の理由を教・時・機で明らかにされている。そこには仏教を聖道門・浄土門と分類決判し、浄土教に依る理由として、今の時代は「去聖遙遠」(釈迦の在世から遠く、また日本は印度から片州なる遠い国でもある)・「当今は末法にして五濁悪世」(修行が成立しない末法であり、五濁という穢れた時代である)とし浄土教を勧めている。また、『大集月蔵経』により釈迦滅後を五百年ごとに区切り、
  第一の五百年−慧を学ぶに堅固。
  第二の五百年−定を学ぶに堅固。
  第三の五百年−多聞・読誦を学ぶに堅固。
  第四の五百年−造立塔寺し修福懺悔すること堅固。
  第五の五百年−白法隠滞して多く訴訟ある。
とし、今は第四の五百年で末法(1)に入っているので、懺悔修福して仏の名号を称えるべきと、「機解浮浅暗鈍」(人間の理解が浅く、解脱に至る事が既に難しい)の時代であるから、浄土教や念仏を勧めるとしている。
 とするならば、この末法では成仏への道が閉ざされた様にも見えるが、それは生死輪廻からの解脱を仏弟子として問い、仏法を観念的に問う事を許さなかった事による。しかし、逆にこの時代においてこそ通じる成仏への道がある事を示されたのが法然上人であり、親鸞聖人である。『無量寿経』に説く阿弥陀仏の念仏による救いは、末法の世においても通じるものであり、法滅の時代においてもこの経だけは釈迦は特別に留めるとまで説法されている。またこの経の教えを説く事を釈迦は出世の本懐とされている点から、念仏のみぞ末世の唯一の救いの道であると選び取られたのである。

    ロ、明恵の場合
 一方、専修念仏を批判する明恵上人(一一七三〜一二三二)の場合、三時(正法・像法・末法)思想に関して明恵は『摧邪輪』(巻中)に、
  分正像末三時者、約証行興廃一途説也    (浄宗全八・七〇八頁下)
と、正・像・末法の三時思想は、修行して証(悟)をうる仏道の興廃の模様を説明する一例にすぎず、仏法が生滅した事ではないとしてこれを斥け、仏教以前から印度で考えられていた「成・住・壊・空」の四劫説(2)に立って、経道滅尽とそれ以後の時期における菩提心発起の問題を論じている。よって、雄大な回帰的歴史観に立つ明恵は、直線的な末法史観を包んで超えるような形で相違し、法然や親鸞が強く末法と機を意識し問題としているのとの歴史観認識の相違がみられる。
 また、明恵は『摧邪輪荘厳記』には、「持法の人ある処、即ち仏法住する処なり。」(浄宗全八・一一二頁上)と述べる。「末法比丘。慧学者多。證道者寡。實大患也。」(東國高僧傳、大日本仏教全書一〇四・一〇七頁下)と当時の東大寺や高雄の僧侶が学解・学行のみで、戒律の面が等閑にされており「諸寺諸山ノ出家ノ僧侶ハ、宗ハカハリ、学ハ殊ナリトモ、釈子ノ風ナレバ、先戒儀ニヨリテ剃髪染衣ノ形トナラバ、欲ヲステ愛ヲタチ、五衆ノ位ヲワキマヘ、三学ノ行ヲ專ラニスベキ」(『沙石集』(日本古典文学大系八五、岩波書店、一九七一年)一六一〜二頁。)と確信していた。よって、
悲哉ヤ我レ如来滅後ニ生レテ生身ノ宿(佛か?)ヲ見奉ラス。是レ長夜カ中ノ根(恨か?)也。然ルニ秤ニ機感ノ数ニツラナリテ、偶遺物(教か?)ニ遇ヘリ。暗ニ燈ヲ得渡リニ船ニ逢ヘルガ如シ。・・・・此ノ故ニ一句一偈ノ文ニ向フゴトニ心ヲ念念ニタノミアリ何ニ況ヤ今ノ頌中ニ若能如レ是解。彼人見二真佛一ト説ケリ。誠ニ悟リノ前ノ境界ハ是其実ノ在世也。・・・差別アルコト無ナシ。
(華厳唯心義巻上、増補改訂日本大蔵経七四・一二二頁下〜一二三頁上)
と如来の滅後に生まれたことに悲歎しながらも、教に値うことのできた喜び、如説に修行することこそが、末世における最高の解脱への道であるという。末法を意識して自己を放棄する事は末世を末世たらしめて、法滅に導くことになるので、仏法を護持すべき僧侶が末法などと言うべきでなく、仏弟子たるものは仏法戒律を護持して大菩提心を発するべきと主張するのであった。

    ハ、貞慶の場合
 貞慶(一一五五〜一二一三)は『愚迷発心集』に、
仏前仏後の中間に生まれて、出離解脱の因縁無く、粟散扶桑の小国に住して、上求下化の修行も闕けたり。悲しみてもまた悲しきは、在世に漏れたるの悲しみなり。恨みてもさらに恨めしきは、苦海に沈めるの恨みなり。いかに況んや、曠劫より以来今日に至るまで、惑業深重にして、既に十方恒沙の仏国に嫌われ、罪障なほ厚くして、今また五濁乱慢の辺土に来れり。             (鎌倉旧仏教、十五頁)
と述べている。しかしながらそれは、「覚悟は時を待ちて熟す、時はまた大聖加被の時也」(同、二八頁)と述べられて、三宝神祇の力を獲て仏道を始めたまわん事を願っている。すでに『興福寺奏状』の第五に「霊神に背く失」が挙げられるように、貞慶には、神(春日大明神等)の力を戴いて仏法をして仏法たらしめようとの願いが見受けられる。(3)しかし現実にはこの佛日を再興する事は不可能であり、釈迦と弥勒を一筋につなぐ、ここが残された教えを興す道としての戒律護持であり、遺法の護持とはこの戒律の護持と把握されていくのであった。よって『解脱上人戒律興行願文』には、
如来の滅後、戒を以て師となす。出家在家、七衆の弟子、誰か仰がざらんや。十誦律に云く、「また諸の比丘、毘尼を廃学して、便ち修多羅・阿毘雲を読誦するに、世尊、種種に呵責したまふ。毘尼あるによって、仏法世に住す」と云云。
(鎌倉旧仏教・十頁)
と、「毘尼」即ち戒律ある事によって、仏法世に住すと述べられるところである。


   三、人間観
 明恵は、
我心ハ猿猴ノ如シ、十方ニ馳散ス
(明恵上人遺訓、大日本史料第五編之七・六〇二頁)
持戒ノクサリヲモテ、仏ノ柱ニユヒツケレハ、タノモシキ        (同上)
我ハ後世タスカラムト云者ニアラス、タタ現世先ツアルヘキヤウニテアラント云者云々、意ハ、指タル行業モナク、懈怠ニシテ、ユイヘナク後世タスカラント云ウトモカナハシ、タタ現世ニ行業モアリ、精進勇猛ナラハ、後生ハタトヒタスカラシト云トモ、無力出離スヘキナリ、懈怠ニシテ罪業ヲノミツマンモノ、ユエナク後生タスカラント云ムカ、無力三塗ニ墜センカ如シ
(明恵上人遺訓、大日本史料第五編之七・五九四頁)
と述べられる、一方法然上人は、
凡夫の心は、物にしたがひてうつりやすし、たとへば猿猴の枝につたふがごとし、まことに散乱して、動きやすく、一心しづまりがたし。・・・かなしきかな、かなしきかな、いかがせん、いかがせむ。ここに我等ごときはすでに戒定慧の三学の器にあらず。この三学のほかに、我心に相応する法門ありや、我身に堪たる修行やあると、よろづの智者にもとめ、諸の学者に、とふらひしに、をしふるに人もなく、しめす輩もなし。             (法然上人行状絵図、法然上人伝全集・二六頁)
現世をすぐべきやうは、念佛の申されんかたによりてすぐべし。念佛のさはりになりぬべからん事をばいとひすつべし。
(四十八巻伝巻四五、法然上人伝全集・二九一頁)
と述べられ、三学の器にないという。同じ移ろいやすい人間と自覚しながら、仏の柱に戒律でゆいつけ、あるべき僧の姿に徹する明恵と、だからこそ念仏申し救われようとする法然との相違が明らかに見て取れる。
 親鸞聖人においても中国の善導大師の文を拠り所としながら、
〈二者深心〉。深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。             (『教行信証』「信巻」、真聖全二・五二頁)
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。   (信巻、真聖全二・五九頁)
一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
(信巻、真聖全二・六二頁)
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはこと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。 
(歎異抄、真聖全二・七九二頁)
「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。
(一念多念文意、真聖全二・六一八頁)
と、煩悩具足の凡夫は救われがたく、この私をみそなわし摂取不捨する阿弥陀仏の救いにより涅槃の悟りを開かせていただけるとする。


   四、釈尊観
 貞慶においては、『興福寺奏状』九箇条の失として「第三 釈尊を軽んずるの失」「第八 釈衆を損するの失」の二点が注目できようか。この内、第三の釈尊を軽んじる事に関して、
夫れ三世の諸仏、慈悲均しと雖も、一代の教主、恩徳独り重し、心あらんの者、誰かこれを知らざる。ここに専修の云く、「身に余仏を礼せず、口に余号を称せず」と。その余仏余号とは、即ち釈迦等の諸仏なり。専修専修、汝は誰が弟子ぞ、誰かかの弥陀の名号を教へたる、誰かその安養浄土を示したる。憐むべし、末生にして本師の名を忘れたること。・・・・善導の礼讃の文に云く「南無十方三世尽虚空遍法界微塵刹土中一切三宝、我今稽首礼」と云云。和尚の意趣、これを以て知りぬべし。衆僧なほ帰命す、況や諸仏においてをや。諸仏なほ簡ばす、況んや本師においてをや。
(鎌倉旧仏教・三四頁)
と、専修念仏者の説く悪人往生の教えは、造悪を怖れず、法の怨となると指摘し、浄土の教門にも盛んに戒行を勧めており、最も大事な事としているではないかと指摘する。
 また、明恵も釈迦の思慕の念が強く、釈迦を慈父・仏眼如来を慈母・春日明神を養父・弥勒を乳母・として仰いでいる。末木文美士氏は『別意別願文』を分析して、釈迦信仰が過去・未来・現在に一貫しているともいう。(4)
 一方、法然は『和語燈録』「三部経釈」に、
しかるに阿弥陀如来、善導和尚となのりて唐土にいでゝ、「如来出現於五濁、随機方便化群萠、或説多聞而得度、或説小解證三明、或教福惠雙除障、或教禅念坐思量、種種法門皆解脱、无過念佛往西方、上盡一形至十念、三念五念佛來迎、直爲弥陀弘誓重、到使凡夫念即生」(法事讃巻下)との給へり。釈尊出世本懐、たゞこの事にありといふべし。                       (真聖全四・五六一頁)
と、善導の『法事讃』の「如来出現於五濁」の文証をもって念仏往生の説示が釈尊の出世の本懐であると語っている。また聖道諸教を指して、
  明知、念佛往生之外、皆爲方便説也。(拾遺漢語燈録「浄土随聞記」、真聖全四・七〇〇頁)
と述られる。親鸞聖人もこれらを受けて『大経』をもって出世本懐の経とされるのであるが、既に『漢語燈録』には『大経』の大意を「玄義分」の意による事を明かして、
  釈迦(世尊)捨無勝浄土(而)出此穢土事、本(爲欲)説浄土之教勧進(誘)衆生爲令(令得)生浄土.。     (真聖全四・二六二頁)
と述べられている。これを親鸞聖人は、
釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。        (教巻、真聖全二・二〜三頁)
と述べられ、「教巻」には後に、五徳瑞現と出世本懐の文が出されてある。


   五、弥勒菩薩理解の問題
 貞慶の弥勒信仰は、古来より法相宗においては、無著論師(四世紀)が兜率天の弥勒に教えを受けて『瑜伽師地論』を著わしたという印度の伝説をはじめ、中国においても道安(三一二〜三八五)や法顕(未詳)・玄奘(六〇二〜六六四)等の多くの兜率願生者があり、日本においても枚挙に暇がないほどである。『心要鈔』に、
問ふ、何の仏を念ずるや。答ふ、弥勒仏を念ず。命終には兜率内院に生ずるを得ん。是我正願なり。問ふ、諸教所讃多在弥陀と弥陀の大願、誓って婆婆を度す。念仏三昧専ら彼の仏を本とす、何ぞ念ぜずや。答ふ、三世の諸仏功徳平等なり、機に随って記を授く、是非すべからず。慈尊是大師の補処、若し所説の一句法偈を聞くも必ず下生に遇い不退を得べし。                 (大正七一・五六頁b)
等と、弥勒浄土願生・弥勒念仏を積極的に力学される。その願生理由としては、一に釈尊付属の故、二に師資相承の故に、三に『上生経』に拠るが故にと三つを挙げている。一については釈迦が末法の世の持戒・破戒・有戒・無戒の人々を弥勒に付属して、等しく龍華樹の下における弥勒の説法によって解脱できるようにされたこと、そして弥勒菩薩自身も私を念ぜざる者すら捨てない、況や念願有る者をやと誓っているからであるという。(5)また二については、無著・世親・戒賢・玄奘・道安・曇戒などの三国の伝統相承の上に兜率願生の根教を示している。三については『観弥勒兜率天上生経』により、臨終の弥勒来迎をその理由としている。
 また、明恵の場合にも貞慶ほどではないにしろ弥勒兜率願生思想があり、入滅に際しては「南無弥勒菩薩」と自ら唱えて、人にも唱えさせたと伝えられる。(6)しかし、明恵の場合、未来願生的な立場ではなく、釈迦崇拝の延長線上にその信仰がり、「ある意味で一体とさえ解することができることは、釈迦崇拝を中心とする南方仏教においては、過去七仏と並んで、弥勒のみは例外として並存してきているという事実からも伺いしる事ができる」(7)という。
 一方親鸞聖人は、『無量寿経』第十八願成就文の「住不退転」は『法華経』では弥勒菩薩所得の報地であり、念仏往生する事は弥勒にすなわち同じ(便同)だというのである。これを『教行信証』「信巻」では、『大経』・『如来会』引文等で弥勒の如く多くの不退の菩薩が浄土往生すると引証している。また、
まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなはち往相回向の真心徹到するがゆゑに、不可思議の本誓によるがゆゑなり。(真聖全二・七九頁)
と述べられ、弥勒は等覚の金剛心を、念仏者は他力横超の金剛心を窮めるが故に大般涅槃を超証するのであり、「便同」すなわち弥勒菩薩と念仏者は同じとまで示され、それだけでなく念佛者には三忍を獲得するという利益もあると、これは阿弥陀仏の往相回向の真心が徹到するからだと示されるのである。


   六、親鸞聖人の仏弟子の立場
『教行信証』後序には、
ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。ここをもつて興福寺の学徒・・・承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。
                         (真聖全二・二〇一〜二頁)
と述べられ、「諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし」と断言されている。しかるに、真仏弟子釈には、
  言仮者、即是聖道諸機、浄土定散機也。          (真聖全二・八十頁)
  言偽者、則六十二見、九十五種之邪道是也。  (真聖全二・八十頁)
等と明し、「真」に対する「仮」とは「聖道の諸機、浄土の定散の機」と言われるように、ここでは仮とは「機」が問題だと定義されている。つまり自力の行者こそが即座に仮であると断言され、仏教の教門をどういう捉え方をしているかの機のあり方が問題とされている。よって、これらの諸機は「教に昏くして真仮の門戸を知らず」という事になる。また、「偽」とは、六十二見・九十五種の邪道というのであるから、機たる私達の捉え方というよりも、真なる道に対して眼を曇らせるような見方や教えに問題がある。ここでは「則」という字が使用されているので、例えばそのような例が六十二見・九十五種の邪道であり、「洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし」という事を指している。
 当然ながら、このような仮・偽の問題は、「化巻」の内容に対応する事は容易に想像でき、「仮」とは第十九願の誓いによる自力諸善行の実践によって浄土往生を願う要門の行者であり、第二十願の誓いによる自力の心をもって称名念仏して浄土往生を願う真門の行者である。また、「偽」とは、「化巻」本に、
しかれば末代の道俗、よく四依を知りて法を修すべきなりと。しかるに正真の教意によつて古徳の伝説を披く。聖道・浄土の真仮を顕開して、邪偽・異執の外教を教誡す。如来涅槃の時代を勘決して正・像・末法の旨際を開示す。 (真聖全二・一六七頁)
と述べられ、「化巻」末冒頭には、
それもろもろの修多羅によつて、真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば、『涅槃経』(如来性品)にのたまはく、「仏に帰依せば、つひにまたその余のもろもろの天神に帰依せざれ」と。略出・・・            (真聖全・一七五頁)
と表示される教誡すべき外教・邪偽であり、鬼神を祭るとか吉良日をみるという仏説以外の教えである。それは、『起信論』を引かれて、
知るべし、外道の所有の三昧は、みな見愛我慢の心を離れず、世間の名利恭敬に貪着するがゆゑなり。                   (真聖全二・一九三頁)
といわれる所であり、唐の法琳(五七二〜六四〇)の『弁正論』を引用して、
『大経』のなかに説かく、〈道に九十六種あり、ただ仏の一道これ正道なり、その余の九十五種においてはみなこれ外道なり〉と。朕、外道を捨ててもつて如来に事ふ。もし公卿ありて、よくこの誓に入らんものは、おのおの菩提の心を発すべし。老子・周公・孔子等、これ如来の弟子として化をなすといへども、すでに邪なり。ただこれ世間の善なり、凡を隔てて聖となすことあたはず。公卿・百官、侯王・宗室、よろしく偽を反し真に就き、邪を捨て正に入るべし。      (真聖全二・一九九頁)
と教誡されるのであった。


   むすび
 同時代を生きた貞慶や明恵は法相・華厳宗の差はあっても、共に厚く春日明神を信仰し、末世を意識しながらもその加被により仏法興隆に努め、戒律の興行に努力した。このような仏道に対して、親鸞は「かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに 仏教の威儀をこととして 天地の鬼神を尊敬す」(真聖全二・五二八頁)と和讃される。また、「化巻」末には『論語』を引用し、独自の訓点により神祇不拝をも示される(8)。そこには専修念佛への弾圧誹謗は、儒教の立場からも不当である事を示そうとされる親鸞の批判精神が見て取れる。それはこの「化巻」『論語』引文の直後に、「諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。」(真聖全二・二〇一頁)と述べられ、『興福寺奏状』を受け入れた儒者達への強い批判として明らかにされている。
 このような諸師への批判は、親鸞の求めた真仏弟子からすると、教誡されるべき邪道に事える者であり、教門と機を弁えない自力聖道の仏道を歩む者であった。親鸞においては、「化巻」引用の『末法灯明記』(真聖全二・一七四頁)に無戒名字の比丘こそが真の宝と主張されるように、末法に生きる機を深く自覚し、釈迦出世の本意を深く尋ねた金剛心の行人、他力念仏者こそが真の仏弟子であると主張されるのであった。
しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、おのれが分を思量せよ。                (真聖全二・一六八頁)
と、「おのれが分を思量せよ」とは、このような親鸞聖人の末法世という時代認識と、深い機(人間)の自覚に基づき、専修念仏を弾圧批判した儒者や旧仏教者に対する批判的精神の現れの言葉となっている。


   註
(1) 経典には末法が説かれる事が少なく、『涅槃経』(大正十二・四七四頁a)には上根菩薩には末法がない事を指摘され、中国においては末法が南岳慧思禅師(五一五〜五七七)の『立誓願文』が初出であり、末法を終末論で語るべきではないとの指摘もある。
(2) 淺田正博氏は「宗教の歴史観」(『龍谷教学』第十二号・一三六頁以下、平成十二年)に於いて、経典には末法が説かれる事が少なく、『涅槃経』(大正十二・四七四頁a)には上根菩薩には末法がない事を指摘され、中国においては末法が南岳慧思禅師(五一五〜五七七)の『立誓願文』が初出であり、末法を終末論で語るべきではないと指摘される。この四劫説は世界の成立から破滅に至る四大時期で、成劫とは衆生やその住する国土・草木などの衆生世間と器世間が成立する期間、住劫とはこの二つの世界が安穏に存続する期間、壊劫とは衆生世間の破滅につれ器世間も破滅する期間、空劫とはすべてが破滅し去って何一つ存在しない時期で、仏教で終末論を語る場合にはこの器世間の破滅する壊劫時に見るべきではないかとも指摘される。ちなみに今の四劫とは、一小劫が二十回繰り返し一中劫となるが、この一中劫が四回(成・住・壊・空)あって一大劫となる一大劫中の四中劫を指す。また、この一大劫が過去(荘厳劫)・現在(賢劫)・未来(星宿劫)に亘るので三大劫ともいい、過去・現在・未来にそれぞれ千仏が出現し、それは四中劫の中の住劫においてである。よって末法は一仏から次の仏への過渡期にしかすぎない事になる。また、中国諸家や日本の諸師の末法観については、松原祐善『親鸞と末法思想』(法蔵館、昭和四六年)に詳しい。
(3) 『沙石集』には「春日ノ大明神ノ御託宣ニハ、『明恵房・解脱房ヲバ、我太郎・次郎ト思フナリ』トコソ仰ラレケレ。」(巻第一第五話、日本古典文学大系八五・七十頁、岩波書店、一九七一年)とある事から明恵や貞慶は仏弟子であろうとしたと同時に神の子でもあった。それは神仏の習合・融和であり、仏が本地で神はその垂迹とする仏本神迹説に立つとみられる。また、貞慶は観音菩薩の垂迹とされる北野天神に対しても信仰篤く必ずお参りされたという(広神清「鎌倉浄土教の神祇観」(『思想』六三三号、一九七七年)。
(15) 明恵の渡天の動機に関して、それは単なる釈迦思慕ではなく、『華厳経』「入法界品」に善財童子が真理探究により五十三人の善知識を訪ねたように、自身を『華厳経』の教えに当てはめたのではないかとの指摘もある。(町田宗風『法然対明恵』七五頁、講談社選書メチエ、一九九八年)
(4) 末木文美士『鎌倉仏教形成論』(法蔵館、一九九八年)二四〇頁によると、明恵の釈迦信仰を次のように図示される。
   過去=釈迦(化身。歴史的存在)        
   ↓                      
   現在=釈迦の不在。遺法・仏像・舎利      
   ↓                      
   未来(来世)=弥勒→釈迦との値遇      
(5) 大正七一・五八頁b・c。
(6) 田中久夫『明恵』(吉川弘文館・人物叢書六十、昭和三六年)一九四頁。『栂尾明恵上人伝』には「其時ニ上人ノ御口ノ中ヨリ白光出テ弥勒ノ御前ヲ照シ玉フ、・・・又弥勒ノ宝号ヲ唱サセラルル時モアリ」(明恵上人資料第一・四二二頁)とある。
(7) 坂東性純「明恵上人の釈尊観」(『大谷学報』二一八、一九七八年)
(8) 「化巻」末には『論語』「先進篇」の「季路問事鬼神章」を引文(真聖全二・二〇一頁)して、本来「未だ人に事ふることあたはず。いづくんぞよく鬼に事へんや」とある部分を「事ふることあたはず。人いづくんぞよく鬼神に事へんや」と読まれている。この他に鬼神に事えず、三法に従う事を示す文が「化巻」末に続く。

 追記:当原稿は仏教文化講演会(於、ベル・ホール、二千年十月二十一日)にて講演した資料に加筆訂正したものであり、当日お話した講演中の法話については一切掲載されていない点をお断りしておく。また、浄土教の念仏思想についても時間の関係と、仏教の中での浄土真宗の立場(歴史観や人間観等)という点に視点を置いた為に割愛している。


著者略歴
昭和40年萩市に生まれる。
同62年龍谷大学文学部を卒業。
平成4年同大学大学院博士課程単位取得退学。
同7年浄土真宗本願寺派宗学院を卒業後、
大学や宗学院の客員研究員を経て
同8年龍谷大学文学部非常勤講師、
同10年より.同大学文学部講師。
浄土真宗本願寺派光山寺若院。


おのれが分を患lせよ
 〜親甘聖人の批判♯神〜

平成13年6月11日発行
著者    武 田   晋
発行者   松 岡 良 文
発行所 萩市仏教文化研究会
〒758−0032
  萩市北古萩50 海潮寺内
  tel.  0838-22-0053
  fax. 0838-26-0157