平成11年度 仏教文化講演会記録

平成11年10月26日
於 萩市新川 ベル・ホール


毛利氏とお寺

毛利博物館 梅田 正


1 はじめに
 萩という町は、私の人生にとって非常に印象の深い所です。大学時代の卒論.のテーマを「萩の城下町」にしたことがその第「歩かな、と埠っています。
 卒業後は、高等学校の社会科の教師となりましたが、機会がありまして県の歴史系の文化施設に勤めるようになり、県教育庁の文化課や文書館(もんじょかん)、博物館に勤めました。文化課では文化財保護の係につき、国や県から指定された史跡や建造物を担当しました。この時が萩と接触することが一番多かった時ではなかったかと思います。
 ご存じのとおり、萩は歴史の町です。指定文化財は数多くありますが、特に生活に影響を与える文化財が史跡です。史跡は歴史の記憶を速す場所(土地)が指定されます。指定されますと規制が加えられます。国指定でありますと土地や建物に手を加えるときには、自分の土地であっても文化庁の許可を得なければ出来ません。
 指定文化財の仕事をしていたとき、「伝統的建造物群保存地区」の制度が新たに出来ました。これは、俗に町並指定と言われたものですが、人々の生活する町並・集落の内、わが国の伝統的な姿を遺している所を、選定して保護しよう とするものです。普通の文化財指定と違って規制を緩やかにした制度ですが、やはり何らかの不自由さが出て来ます。選定を受けるには住民の方の同意が必要となります。なかなか難しいことでした。当時の菊屋市長さんが大変に力を尽くされたことが強く記憶に残っています。その結果として、堀内地区と平安古地区のニカ所が選定されましたが、これは全国でも一番目と二番日のものです。
 定年後、毛利博物館に勤めることとなりました。そして改めて毛利氏について勉強してみて愕然としました。毛利氏について知らないことが多かった、と。さらに毛利氏が本当に底の深い大名家であることも分かった次第です。
 大河ドラマで「毛利元就」が取り上げられました。元就は、本来は広島県の人ですね。山口県の歴史の中では比重は低い。正直言って私も、元就についての知識は一般の市民の方々とそんなに変わらない状態でした。勉強しました。素晴らしい人だったですね。すごい人でもありました。
 今日、私に与えられたテーマは「毛利氏ゆかりのお寺」です。城下町には、寺院が集まっている地域があることが多いのはご存じであろう と思います。萩では古萩地区でしょ うか。萩の町の中にあるお寺で、城下町が開かれる前から存在するのはどのお寺であろうか。開府後に、造られたお寺は、どこから越してきたか、興味を引きました。
 しかし、体調が悪くなって手術・入院しましたので、寺のことについては十分追求できませんでした。萩市仏教会で作られた「萩市寺院名鑑」は萩市内の寺がどこからどのようにして来たか、がまとめられ、とても参考になりました。添付資料の萩市内の毛利関連寺院については、広島県吉田町出身の小都勇二といわれる郷土史家の方が書かれた「高田郡史」や「萩市史」等を参考にして作成したので参考になるかも知れません。
 毛利元就は信仰心が篤い人と知られていますが、本拠の郡山城周辺に寺院は数多く建立 しています。元就没後、孫の輝元が後を継ぎますが、広島に移り、さらには関ケ原戦以後萩に移ります。この毛利氏の移動と共にお寺も一緒に移ってゆくものが結構ありました。
 萩の町は毛利氏が作った町です。そして江戸時代の毛利氏の出発点は元就とあったと考えています。今日は、毛利元就について話をさせていただきたいと思います。

2 毛利氏について
 萩藩主としての毛利氏を理解するには元就から理解しなければならないと思います。それは元就が毛利の家を継がなや、つたなら、恐らく毛利氏は消えていたのではないでしょ うか。萩藩主となる毛利の家さ耳元就が造った家ではないか。元就以前と以後の毛利家は違う家であると、考えられることもある思います。
 元就は次男と して生まれた。当時の武将の家では、長男が家を継ぐのが原則セした。父の弘元の長男の興元、元就の兄になる人ですが、若く して亡く なった。その後は興元の子の幸松丸が長子故に家を継ぎます。まだ1歳。元就が後見役となり ます。その甥の幸松丸も9才で死亡する。9歳ですから当然後を継ぐべき子どもがいません。跡目相続を誰にするかという こ とになる。
 その決定権を重役会議が握っていま した。元就には元綱という異母弟がいま した。この二人から選ぶのですが、幸松丸の後見役をしていた元就が選ばれることになりました。実戦で勝利を得ている経験がものをいったかと思います。
 軍記の中に書いてあることによりますと、自分の夢に老人が杖をついて出てきて、その杖に付けてある短冊に「鷲の羽を継ぐ脇柱」とあったと、重臣たちに披露しました。元就が継ぐということを自らアッピールしたというのです。元就は策略に長けた人でしたので、それに基づいて作られた話でしょうか。
 元就は当時としては非常に長生きをして、75才の人生を送っています。人生50年という時代もつい最近まで言われていたと思いますが、戦国時代にはもっと低かったと考えられます。この75才の生涯で、270回も戦争をしたといわれています。戦国時代だからといっても、際だって多い数です。本陣で指揮しただけで、元就自身が戦場に直接行かなかったものも入っていると考えられますが、それにしてもすごい数です。信長や秀吉の戦った数の四・五倍もあると言う人もいます。
 元就が何故これだけの戦争しなければならなかったのか。それには色々と事情がありました。毛利氏とはどんな存在であったのか。
 広島県は西半分が安芸の国、東半分が備後の国で、その中に国人という村長のような存在の者が 30人くらいいたと考えられています。その国人たちは同じようなレベルで、その中で生きていかなければならなかった。生きていくための苦労や努力が必要でした。

3 毛利の興り
 毛利家はたくさんの戦国武将の中では比較的毛並みが良い家であったと思います。
 毛利氏の初代は天照大神の子の天穂日命(あまのほひのみこと)であると伝えられています。それより 28代目に当たる人が大江音人(おとんど)という人です。平城(へいぜい)天皇(桓武天皇の皇子)の皇子の阿保(あぼ)親王という人の子どもに当たる人です。この音人は大江という姓を名乗ります。この大江という姓は毛利家にとって誉れある大事な名となります。毛利というのは仮の名前で、大江というのが本当の名であるとも考えられています。広島県吉田町にある毛利元就の墓所にあります石柱には「大江朝臣元就」と刻まれています。現在の毛利家の墓所は山口の香山公園の中にありますが、そこに幕末維新時に活躍した13代藩主敬親の墓があります。その基銘に「大江敬親」とあります。萩藩初代藩秀就の父親で、元就の孫であった輝元の墓は天樹院墓所にありますが、たしか毛利でなく 「大江」の字が書き込まれていたかと思いますが。
 大江家は平安時代を通して、学問で朝廷にお仕えする公家の家でした。平・安時代には大江の他に学問の家柄として菅原家 く菅原道真の家)がありました。初代は周じ天穂日命です。防府市に最初に建立されたと伝えられている天満宮あります。先祖を同じくする毛利家と菅原家の痕跡が防府に集まっていることに因縁めいたものを感じます。
 平安時代末期(12世紀)に、源氏と平家の2大勢九の抗争がありました。はじめ平清盛が実権を握りましたが、源頼朝が挙兵して、源平の戦いで勝利を収め、平氏に代わって政権を握りました。政治は天皇の側で行うのが当たり前の姿でしょうが、頼朝は京都でなく、鎌倉で幕府を開きました。幕府とは武士が政治を行う役所と考えて良いと思います。頼朝は武家政治を始めたわけです。
 幕府の組織を作るため、京都より公家である大江家 38代の広元を呼び寄せました。広元は総理大臣的な地位を与えられ、政治のシステムを作り上げました。全国に源氏の家来を守護・地頭として配置するシステムです。幕府の権力が全国におよばせることになったわけです。頼朝はこの成功を非常に喜び、広元に賞として八方所の土地を与えます。その一つに相模国(神奈川県の西部)の鎌倉に近い所に毛利荘という土地がありました。広元は、その土地を四男の季光(39代)に譲ります。この季光の代から、地名をとって毛利という姓を名乗ることになり ます。13世紀のことです。
 当時の武士は、姓を自分の住んでいる土地の名をとっていました。山口の大内氏も、最初は今の防府に居ましたが、その時は防府平野にあった多々良の地名を名乗りにしています。山口へ移ると大内を名乗ります。大内は現在も使われている地名です。
 広元は、四男季光にこの毛利の地を譲り、結局、大江氏の本流を毛利氏が継いでいくことになります。
 広元と季光の父子の基は鎌倉にあります。源頼朝の墓の近くです。面白いことにその隣に薩摩の島津の墓が並んでいます。島津は、頼朝の庶子の子孫という説もあります。幕末に薩長同盟を結んだのも因縁であるのかも知れない。
 39代季光は、1247年の宝治の合戦で幕府の執権北条時頼と戦い、自刃しました。四男の経光は、越後(新潟県)の佐橋荘(柏崎市)と広島県の吉田荘の毛利の領地を譲られ毛利氏40代の当主となります。
 経光の四男で 41代時親の時、幕府の出張所(六波羅探題)のある京都に赴任します。新潟県の土地は子供に任せて、自分は京都に留まり、和泉(大阪府)に土地を与えられ、現在の泉佐野市に別邸 く大阪府指定の史跡となっています)を造ります。この頃、楠正成が時親から孫子の兵法を学んだという伝えがあります。大江氏は兵法を教える家でもありました。
 鎌倉幕府が倒された時、時親は越後佐橋荘に帰らなければならなかったのですが、佐橋荘は北条と南条の二つに分かれていたのを長男に北条を譲り 〈後に上杉氏の家臣となる)自分は二男を連れて安芸(広島県)の青田へ移り ます。14世紀のこ とです。京都に赴任していた時、西日本の経済の発展は瀬戸内が中心である事を知り、吉田荘の方を選んだと想像されます。
 毛利氏は神代から始ま り、大江氏の代を経て、相模毛利から越後毛利、そうして安芸毛利となり防長毛利と繋がることになります。数多の戦国武将の中で、毛利家は毛並みのいい家柄の家であるというのは、毛利氏には皇室の血が流れ、学問の家の伝統を持つ家であるということから言えることです。

4 元就の生涯
 元就が跡を継いだ時、国人という村長や税務署長と警察署長を兼ねたような立場の家でした。当時、広島県内にはこのような豪族が30も居たいわれています。それらの国人達は、西の大内グループと東の尼子グループに分かれていました。
 元就は、妻を吉川家よ り撃っていま した。妙玖といわれていますが、これは没後に与えられる法名で、生前の本名は分かっていません。実家の吉川家は、尼子氏に属していました。毛利家は元来は大内方であったが、ここで尼子氏にも接埠するようになります。
 尼子氏は野心家で、大内氏に対抗するため、毛利氏の実権を握ろうとします。そのためにゴタゴタした事件が続き、最後は元就は大内に寝返ることになります。そのため尼子氏は、毛利氏の本拠地の吉田の地に遠征して来ますが、毛利の戦略によって尼子は敗退します。
 元就は生涯2 7 0回の戦争をしているが、そのほとんどは、勝利で終わっています。尼子との戦いと九州征伐の中で敗退することもかにありますが、殆どでを勝利を得ています。毛利氏の祖の大江氏が兵法の家であったこともあるかも知れません。毛利博物館に輝元の研究した兵法書が残っています。大江のの兵法で策略を用いて勝ってきたものでしょう。
 元就は、家を継いだのが 27歳で当時では中年という歳です。だからものがよく見えた。しかも小さい時に非常に苦労している。5歳で母を、10歳で父を亡く しています。その後、養母である杉の方に元就は非常に良く導かれた。「三子への教訓状」の中で、子どもたちにも杉の方のことを「自分がここまでやれたのは、杉の方のお陰だ」という意味のことを書いています。また、元就11歳の時、杉の方は偉い坊さんの所に連れて行き、お祈りの大切さを教えてくれた。また、毎朝太陽を拝み、毎朝手を合わせ10回お念仏を唱えることを習った。今でもやっている、と。だから、子どもたちにも、そのようにしなさいといっています。養母の杉の方の影響が大きかったことが窺えます。
 ただ、若い頃は、兄の興元が家を継いでいたので、元就は本流からはずれ、自分は居候(いそうろう)の身となります。しかし、兄の死後、甥の幸松丸の後見役となり、戦闘を指揮していきます。
 戦争も非常にう まかったといわれますが、調略・計略をいつも計ったと言われます。そのために、「毛利元就Jのドラマにも出たように間者(忍びの者)を巧く使ったといわれています。軍記書では30人くらいの忍びを使っていたとありますが、問題は、集めてきた情報の中に偽物が多い。いかに情報を巧く分析するか。苦労しただけに、情報をよく見ていた。人を見たら仇と思え、という考えを持っていた感じで、初対面では人を信じない。何回か会って、初めて信頼するというふうであった。
 殆どの武将が忍びを使ったと思われますが、元就の場合はその使い方が巧く、色々な情報を分析検討し、自分に役に立っかどうか、味方になるか、そうでないかをよく調べた。
 下心や真心があると思ったら、徹底的に攻撃し曖昧なところはない。反面、忍びの者を使って、偽の情報を流し、巧く利用をしたりも しています。
 また、元就は大内氏と尼子氏との狭間の中で、30もの国人たちが相争っても仕方がないという ことで、一種の同業組合を作ります。これを一揆といいます。
 一揆とは、騒動を起こすのではなく、連合するということです。連合体を作り、尼子と大内の二つの勢力について抗争していた安芸・備後の国の国人たちを一つにまとめていきます。
 毛利博物館に「から傘連判状」という古文書があります。これは盟約書です。話をまとめ、その革し合いに参加した人が署名して、その話し合いや約束事は成立させます。
 その署名の仕方は、普通なら、一番先に偉い人や力のある者から横に書いていくものです。「から傘連判状」は、まず円を書いて、その円の回りに署名してゆく。傘を開いた形で署名してゆくのです。署名したお互いが平等であるという意味で円形に署名したわけです。上下の区別がない。
 しかし、その中でも円の上の方の真ん中に元就の名前があります。これは連合体の組合長的な存在であることが、連合体の中で暗黙の了解となっていたと考えられます。
 これに署名した人が、毛利軍団を構成します。しかし、著名した人は一国一城の主です。そのことは、毛利軍団はいわば多国籍軍の連合体のようなものであったことを示します。完全な家来ではないから、元就といえども、他の国人たちには遠慮があったのです。
 元就がこの軍団のリーダーとなったのは59歳の時でした。
 厳島合戦です。大内義隆を滅ぼした陶晴賢を弔い合戦として毛利は立ち上がります。 陶の軍勢2万に対し、毛利は2千。普通なら勝てる相手ではなかったが、様々な戦略を駆使して勝利を得ます。武士は戦に勝つことで名を上げてゆきます。大内氏の後を継ぐ陶氏を倒した、ということは素晴らしいことでした。一目置かれる武将になったことです。国人達がその傘下に集まってきました。毛利軍団の形成です。
 その後は、大内に代わって勢力を伸ばし、61歳の時から15年の間に中国地方の大半を占める大大名となっていきます。61歳までは、ほとんどが広島県の中だけでの活動でしたが、61歳を過ぎてからは、広島県の外に向かって発展していった。中国地方から九州・北四国にまで勢力を伸ばします。そして、最後に尼子氏を滅亡に向かわせていきました。

5 元就の借仰
 現在新興宗教等にあるマインドコントロールというのを、元就は巧く使ったと思います。毛利博物館には、元就関連の資料が沢山所蔵しています。その中に「軍峨」と呼ばれているものがあります。長方形の布切れで、上方に「一に三つ星」の毛利家の家紋が書かれ、その下に三行の文字が書かれています。 右の行には「頂札正八幡大著薩」、左行に「帰命摩利支尊天王」、中央の行に「南無軍神二千八百四天童子」。軍の神と仏の名です。当時は神と仏がはっきりしなかった神仏混渚の時代でした。これは戦陣に持っていく軍旗でした。戦勝の加護を願う旗です。布は、白色で、亀の甲の紋様が織り込んでいます。亀甲紋は厳島神社の神紋です。この軍旗は厳島神社の神衣の布を貰って作ったものでした。戦場に持っていくと言うことは、厳島の神を連れて行く という ことです.厳島の神が守ってくれるので、毛利睾は必ず勝つのだ、と思いこますのである。信仰心を利用したマインドコントロールの一つでしょう。
 毛利家の家紋は四つあります。一番良く知られているのが「一に三つ星」紋である。この紋は表紋として使われているものです。そして毛利家が皇室の血筋を受けていることをあらわす紋であると考えられています。この紋は「一品(いっぽん)」という字ををデザイン化したものです。一品は、律令で定められた皇族の位の本位制 く四階級ある)の最高位のものです。毛利氏の初代は天穂日命(天照大神の子)と伝えられていますが、平安時代の初めに平城天皇の孫に当たる音人がその系統を継ぎ、大江という家を新たに興します。音人の父親が一品の位を持つ阿保親王(平城天皇の第一皇子)でした。つまり、「一に三つ星」の家紋は、天皇家の血筋が入っていることのシンボルであったのです。
 二番目の家紋は「沢清(おもだか)」紋です。この紋は、裏紋ともいわれ、家内で用いられます。ただ、江戸時代には武鑑や江戸屋敷絵図には沢演紋が用いられていて、公式にも使用される事がありましたが。
 他の二つは、皇室からいただいた菊紋、豊臣秀吉から貰った桐紋があるが、ほとんど使われることはありません。
 戦国大名の戦争は、殺すか殺されるかで、頼るものは神仏のみでしょうか。戦争に行く時は、持仏として小さな仏像を兜の中に入れたり、経文を入れたり して戦場に向かった武将も多いといわれます。
 武将は、戦陣に陣僧を連れて行くことも多い。戦争で殺した人の首実検をした後、弔いをするためです。元就は、陣僧を30人くらい連れて行ったといわれています。これら陣僧は戦陣に出るときに占いをしたり、祈祷をします。軍記物によると、戦場で殺した者を鞭打ったり恨みを晴らしたりしていますが、その後は陣僧により丁重に弔っています。
 現在、厳島神社には国宝や重要文化財に指定されている甲胃・刀剣などの武具を沢山所蔵していますが、これらの中には元就などの毛利一族から寄進されたものが沢山あります。戦場に向かう時に戦勝を祈願し、戦後の戦勝を喜び寄進したものでしょう。殺伐たる戦国時代は、信仰の気が滞る時代でもあったのです。
 武将たちは競ってお寺やお宮を作ります。元就も、その本拠地の安芸青由の地に多くの仏閣・社殿を造っています。 元就死後、広島を経由して防長の地にその本拠地を移しますが、寺院・神社も一緒に移されたものも多く、関ケ原以後の防長への移動に際しても寺社を伴っています。

6.おわりに
 明治時代になると、政治の中心が東京になります。しかし明治新政府は出来たばかりで、力が無く、全国にいた 300にものぽる大名の存在が不安でした。そこで大名たちを明治四年の廃藩置県の時に、東京に呼び集めます。毛利家は明治維新に功績があったのですが、大名でもありますので、東京に移ることになります。東京では、品川に土地を求め、明治2年に高輪御殿を建設しました。現在の品川駅前にあり ます品川プリンスホテノヒの土地が当時の高輪御殿の敷地です。
 明治20年頃にもなると、明治政府の基礎も固まり、旧大名家に対して不安も無くなり、旧藩時代の土地に住居を造ることが許されるようになります。
 毛利家も、山口県内に屋敷を造ることになり、旧家臣で毛利家の管財人も勤めていた井上馨に土地の選定を依頼しまんた。それにより選ばれたのが現在の防府市の毛利邸です。気候温暖、交通環境も便利、山口県の中心に位置する、などの理由であったと思われます。しかし、日活戦争や日露戦争の影響もあって、工事着工は遅れ、大正元年に着工され、大正五年に竣工しました。
 第二次大戦後、東京・防府のニカ所の屋敷を維持することも困難となり、東京の高輪邸を手放される事になりました。毛利家には歴代の古文書・古記録類や財宝類が受け継がれてきています。元就時代の吉田の地から、広島・萩・山口ヘと本拠地が移されるたびに、移動されていた。終戦時点では、そのほとんどは東京の屋敷に保存されていました。戦後、本拠地を東京から防府に移された時に、これらの古文書類・財宝類も山口県に移されることになりました。この時に、長州藩の藩政に関する古記録類が山口県に寄託されることになりました。江戸時代の行政記録を中心とした貴重な歴史資料となるものです。山口県では、これらの2万点にも及ぶ資料群を広く公開し、学術研究用に提供することを検討しました。その結果生まれたのが「山口県文書館」です。大名家の資料としてこれほど大量に遺されているものは、毛利家以外では非常に少ない。しかも図書館方式で広く公開し閲覧が出来る所は限られています。毛利家と山口県の英断であったと思います。
 毛利家に関する古文書と財宝類は、防府の毛利邸で保存することになりました。これらの資料も、歴史を理解するための貴重な資料であり、美術資料としても価値の高いものが少なくありません。ちなみに、国宝に指定されているものは雪舟の描いた「四季山水図」を含めて4件7点。重要文化財に指定されているものは「毛利元就画像」をはじめとする9件。山口県指定の文化財10件211点、重要美術品17件20点の文化財を所蔵しています。これらの資料は毛利樽物館で公開しています。なお、庭園と邸宅が国の名勝「毛利氏庭園」に指定されています。
 本日のお話のテーマであるr毛利氏とお寺」とは、かけ離れた話になつたかと存じますが、山口県に、また萩市に住んでおられる方々に毛利という家がどんな家であったかということをご理解を深めていただければと思った次第です。
 ご静聴、有り難うございました。


萩市内の毛利関連寺院

 真言宗  満願寺(安芸吉田→城内→防府市)
       円政寺(山口→塩屋町)
       秀岳院(安芸吉田→平安古→廃寺)興元菩提寺
       金剛院(安芸吉田→堀内→廃寺)
       養学院(安芸吉田→堀内→廃寺)

 臨済宗  洞春寺(安芸喜田→城内→山口)元就菩提寺
       天樹院(堀内→廃寺)輝元菩提寺
       妙悟寺(堀内→廃寺)輝元締菩提寺
       正灯院(安芸吉田→金谷→廃寺)
       大照院(桜江)秀就以後偶数代藩主菩提寺
       徳隣寺(安芸→山口→江向)福原氏菩提寺
       観音院(玉江)元就帰依
       樗厳寺(安芸吉田→玉江)福原広俊菩提寺
       妙玖寺〈吉田・妙玖庵→城内→廃寺)元就夫人妙玖菩提寺
       隆景寺(安芸沼田・巨真専→河添→廃寺)小早川家菩提寺
       松雲院(濁淵→廃寺)秀就長男松寿丸菩提専

 曹洞宗  海潮寺(石見→北古萩)

 黄欒宗  東光寺(椎原)吉就以後奇数代藩主菩提寺

  日蓮宗  蓮華寺(吉田→津守町→妙蓮寺)興元代に創建

 浄土宗  龍昌院(北古萩→広雲寺)秀就夫人菩提寺

  浄土真宗 清光寺(西田町)輝元夫人菩提寺
        安芸吉田から
          蓮正寺(棒町)・明円寺(北古萩)・泉福寺(浜崎町)
          光明院(上五問町・光源寺)・満行寺(平安古)
          万福寺(浜崎新町)・長泉寺〈北古萩)・西光寺〈瓦町)
          妙好寺(上五間町・光楽寺)・浄国寺(→山口→北古萩)
          実行寺(河添)・長福寺(→廃寺)・西楽寺(?)

文献
萩市史
(江戸初期)
山口県寺院名鑑
(昭8年)
新版
萩市寺院名鑑
黄柴宗 3(3) 2 3
天台宗 2(1) 1 1
浄土真宗 37(28) 11 29
臨済宗 17(8) 7 7
曹洞宗 10(8) 5 7
真言宗 17(5) 4 7
浄土宗 3〈12) 8 11
法華宗 2 1
日蓮宗 4(3) 1 4



あとがき

 本冊子は、平成11年4月8日に萩市仏教会・萩市仏教文化研究会から発行された『城下町萩の寺と人物』の出版記念として、同年10月26日に開催された「仏教文化講演会」(萩市仏教文化研究会主催、於 萩市新川 ベル・ホール)での、毛利博物館館長・梅田正先生の御講演「毛利氏とお寺」を活字化したものです。活字化に際しましては、仏教文化研究会会員の久保田糾さんに御協力をいただき、テープからの原稿起こしをお願いいたしました。その原稿を梅田先生にお送りして目を通していただいたのですが、先生はご親切にも原稿に大幅に手を入れて大変読みやすくして下さり、その上ワープロ仕上げまでして下さいました。お届けいたしております本冊子は先生のワープロ仕上げをそのまま印刷致したものです。内容的にも毛利氏のこと、特に毛利元就の性格的な事柄に関することが手軽にわかる貴重な資料かと存じます。この場を借りて梅田先生に重ねて御礼申し上げます。(萩市仏教文化研究会事務局)
(追記:上記の冊子を研究会事務局でスキャナを使いデジタル化しました。その際、誤字の見落としがあるかもしてません。すべ事務局の責任です。お断りを申し上げます。)


著者略歴
昭和9年呉市に生まれる。
同33牛山口大学文理学部を卒業後、高校教員、県文書館研究員、県立山口博物館学芸課長を歴任し、
同62年に県文書館副館長、
平成4年県立山口博物館副館長、
同6年より現職の毛利博物館館長。山口大学、県立大学各講師。


毛利氏とお寺

平成12年4月8日発行
著者 梅 田  正
発行者 松 岡 良 文
発行所 萩市仏教文化研究会
〒758−0032
山口県萩市北古萩50海潮寺内
   tel.0838−22−0053
   fax.0838−26−0157