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無事の心境
(曹洞宗・海潮寺副・木村延崇)
年末のこの時期、茶室には「無事」の茶掛が広く好んで掛けられます。
年の瀬を迎えるに当たり、一年を平穏無事に過ごせ、安堵の心持ちであることを表していると思われるでしょう。
しかし禅語で「無事」とは、「なすべき事は何もない。人為の入り込みようもない平穏静謐な世界のありよう」と理解されています。
また、「無事これ貴人」という有名な言葉もあります。
「なすべき事が、もはやない者こそ貴人である」であり、「一切の造作を排して、平常心で臨める人」こそが理想とされるのです。
当然ですが、何もしない、というのは、怠け惚けて努力しない、ということではありません。
物事に際して、おのれの我執をもちこんで、あれこれと画策すればするほど、思うようにならずに、悩み苦しみが生じる。
そういうことを離れて、ありのままを、ありのまま受けとめるところに、平安無事な心持ちが現れる。
いかにも禅的な心境といえるかもしれません。
さて、茶の世界は、細やかな所作が定められていますので、堅苦しく感じられる人もいるでしょう。
ところがそれらがすっかり身につくと、自然と立ち居振る舞いが定まり、穏やかで何事もなかったかのように、自然と茶をいただくことができます。
床に掲げられた「無事」の茶掛を眺めながら、一年を振り返り、いろいろと反省いたしているところです。
皆さまにおかれましても、新しい年を「無事」な心持ちで迎えられますよう、お祈り申し上げます。