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          濁った鏡

浄土真宗・長泉寺・木村智徳


 先日、あるファミリーレストランで家族4人で食事をしておりますと、そこに同じようにお父さんとお母さんと小学校にあがるかどうかぐらいの子供2人の4人家族が入ってきました。

 すると、食事を注文するやいなや、お父さんと子供2人は持ってきたゲームで遊びだし、お母さんは携帯電話でメールを打ち始めました。

 料理がテーブルに届いて食事が始まっても家族4人ともゲームとメールを止めるでもなく「いただきます」とも言わず4人とも口と手が上手に動いていました。

 皆さんはこのような光景をどのようにお考えでしょうか?

 私は2人の子供を持つ親として、せめて2人子供の前ではお手本でありたいと行動しているつもりです。こういう親をみますと正直腹が立ってきました。

 阿弥陀様は私を映しだす鏡であるよく言われます。私がどんなに着飾っても表面ではなく内面を映しだす鏡であります。

 内面を映しだされては、なんともお恥ずかしい私でありました、と言わざるをえないのが私たち人間の本当の姿でありましょう。

 それでも、その恥ずかしい私を阿弥陀様は必ず救うとおっしゃって下さっています。

 そんな阿弥陀様に恥じない生き方を私たちはしなければなりませんし、子や孫に伝えていかなければなりません。

 子供は親の鏡とも言われます。しかし親の持つ鏡が濁っていたら子供の鏡もやはり濁ってしまいます。

 この子供が成長した時、やはり同じことを繰り返すのかなと思うと大いに心配になります。

 私たちは自分の持つこの濁った鏡を仏様のお話をきいて少しずつでも綺麗に磨いていかなければならないのではないでしょうか。



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