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平成27年
花まつり


4月8日はお釈迦さまがお生まれになった日として、世界中の仏教徒がお祝いをいたします。
萩市仏教会でも恒例の「花まつり」を開催いたしました。
本年も多くの来場者で賑わいました。H27/4/5(日)


仏教会新キャラクター
はぎぶっちゃん お披露目


昨年、デザイン・名前を市内の子供たちから募集し、
本年、等身大の「はぎぶっちゃん」ついに誕生いたしました!!



なんと!女優・声優の田中真弓さんも、お披露目にかけつけてくださいました!(右側)

今後、毎年はなまつり、秋の托鉢のほか、各種行事に登場する予定です。
愛されるキャラクターに育てて下さいますよう、よろしくお願いいたします。



稚児行列

津守町報恩寺から田町商店街まで、稚児行列をおこないました。

 



灌仏法要

本年は臨済宗・黄檗宗寺院によって、灌仏法要が厳かに執り行われました。




ストリートダンス

会場を萩市民館大ホールに移し、NPO法人萩子どもセンター所属の女の子たちによる、ストリートダンスが披露されました。





田中真弓さんトークショー
女優・声優の田中真弓さんをお招きし、チャリティートークショーをおこないました。



 



パネル展示企画
萩・維新巡礼〜維新ゆかりの寺を巡る

3年後に明治維新から150年、また今年は大河ドラマ「花燃ゆ」が放送され、
幕末から明治までの萩の歴史に注目が集まっています。
幕末から明治に至る激動の時代に生き、新しい社会を目指して活躍した方々と、
萩のお寺との関わりをご紹介しました。





13ヵ寺、54点の展示写真の中から、一部をご紹介いたします。



月性歌集「拙稿」表紙 光山寺

月性(安政5・1858寂)は現在の柳井市遠崎の妙円寺10世住職。
尊王攘夷運動にも活躍し、吉田松陰と親交を結び、強い影響を与えた。
特に日本沿岸の海防の重要性を説いたことで、海防僧の異名をとった。

上掲は叔父にあたる光山寺第10世泰乗に、月性が自作の漢詩の校正を依頼したと思われるもの。
全9枚綴り。
表紙「丁巳」は安政4(1857)年にあたり、月性が没する前年に相当する。



各詩には題が付され、「春日野望」「客中除夜」(写真上部)、
「廃寺観花」(写真下部)など16篇のいずれも、既刊の遺稿集「清狂遺稿」に未載録である。
今後、内容等の詳細な調査研究が期される極めて貴重な資料である。





松陰萩野山獄中短歌行書 泉福寺

安政2(1855)年25才時、松陰は野山獄中で囚人の寺子屋元師匠の吉村善作(49才)と河野数馬(44才)らと俳諧を催した。
同年9月29日に詠まれた短歌が後に軸装され、昭和23(1948)年、吉田家12代の衛氏から寄贈された。
吉村善作「花の屋」、河野数馬「花逸」、
富永有隣(明倫館学頭山縣太華に師事した儒者にして書家、36才)「蘇芳」、
弘中勝之進(48才)「節洞」として登場する。
後半には防府天満宮奉納の詩が表装時に接がれている。





吉田松陰位牌「松陰二十一回猛士」 泉福寺


松陰没後、吉田家菩提寺の当寺に塾生と思われる人物が奉納したという。
二十一回猛士は松陰の号であり、門人に死後墓碑等に用いるよう遺言するほど愛用した。
「杉」の木偏(きへん)を分解すると十八、彡(さんづくり)が三、合計21。
「吉田」も「吉」は士(十一 → 11)、「田」は十に分解され合計21。
残った「吉」の口と「田」の口を合わせて「回」となる。
通称寅次郎すなわち虎の徳である猛をもって士となす、と野山獄中で記している。
背面には没年「安政巳未十月二十七日」と刻銘されている。




楫取素彦茶室 広厳寺

昭和12(1937)年、当寺より650メートルほど東の楫取家旧宅にあった茶室を、
広厳寺本堂裏の緩やかな傾斜地を巧みにいかした庭園を眼下に望むように移築された。





本席は4畳半(写真下段)、網代天井の水屋は3畳(写真左上)、
茶室外側の脇障子上部の透かし欄間には、楫取家の家紋花菱をあしらった装飾が施されている(写真右上)。






野村靖集合写真 浄国寺

明治33(1900)年、山口市亀山公園での日清戦役招魂祭(毛利敬親公銅像除幕式)にて撮影され、
全員長州出身である。
写真枠の貼紙に人名や当時の地位が記されている。
前列向かって左から伊藤博文(枢密院議長大勲位・侯爵)、
井上馨(伯爵)、杉孫七郎(子爵)、野村靖(子爵)、
後列左から児玉少介(貴族院議員・予備陸軍少尉)、山口素臣(第五師団長・男爵)、
木戸孝正(式部長・侯爵)、真鍋斌(第九旅団長・陸軍少将)、周布公平(神奈川県知事)。

当寺には野村靖先祖墓がある因縁により、度々当寺に参っていた(靖墓所は東京世田谷松陰神社、兄九一ら入江家墓所は北古萩長寿寺)
当寺11世祐静に対し「薩長同盟に同座した西郷隆盛は立派な人物であった」と述懐したという。





入江九一墓所 長寿寺

中央に「入江九一弘毅之墓」。
その他は向かって左手より、1基め「入江音次郎弘剛之墓」。
九一の妻・粂の実弟で、夫妻に子供がおらず入江家の養子嗣となるも、
明治6(1873)年米国留学中に客死(行年23)。
入江家は一時絶えるが明治17(1884)年、九一実弟の野村靖次男貫一が2歳で入江家を相続する。
2基め「入江九一夫人堀氏之墓」。
妻・粂は九一父の同僚堀音右衛門好持の娘。
4基め「入江嘉伝次夫婦之墓」。九一父嘉傳次と母待子。
5基め「入江氏先祖合葬之墓」。
先祖墓以外の4基にはいずれも背面に墓碑がある。





金子重輔墓所 海潮寺

中央の墓石に「贈正五位金子重輔之墓」と記銘、基壇部に家紋「丸剣片喰」、
手前花筒一対に「寄附吉田氏」とある。
岩倉獄中で病死した重輔を追憶した野山獄中の松陰が、遺族に対して金百疋を贈り弔慰を表し造立させた。
獄中の自身の食事を切り詰め捻出したという。
向かって右側墓石に「金子家合葬之墓」、向かって左側墓石に両親と重輔戒名「禅学意休居士」が記銘される。





郡司富蔵信成鋳造半鐘 東光寺

幕末に青海鋳造所当主だった郡司富蔵による半鐘。
「萬延庚申八月再鑄 東光寺御根帳物 鑄工 郡司冨藏信成作」とあり、1860年に相当する。
東光寺大書院方丈内にある。
富蔵は攘夷・海防のため大砲製作にも携わる。

江戸初期、大砲鋳造のため、防府三田尻から萩に召し出された郡司讃岐長左衛門信久(寛文9・1669没)だったが、
その後郡司家は鋳造・砲術方の八家に分かれ、仏具・梵鐘なども鋳造した。
青海鋳造所(光福寺付近)8代目の富蔵による幕末鋳造の大砲は、
元治元(1864)年の下関戦争で欧米列強に戦利品として没収され、現在ロンドンの王立大砲博物館に一門展示されている。
同時期、松本鋳造所(松陰神社付近)の喜平治信安(明治15・1882没)の大砲も没収されたが、
平成20(2008)年、144年ぶりに一時里帰りし、萩博物館で一般公開された。
 富蔵の法名は正信良道居士。墓所は光福寺。


平成29年(2017)に記録集『萩・維新巡礼』が刊行されました。





花まつり翌日(2015/4/6)朝日新聞朝刊より